播磨の郡と評20211202
提供:UselessNotes
郡(こおり)
地方支配の要
郡家(拠点)のこと。かつては「評」と言っていた 崇神天皇時代に4人を派遣 古事記に記載>東北、山陰、山陽、東山道
常陸国風土記
元は6つの郡>「新治」、「筑波」、「茨城」、「那珂」、「久慈」、「多賀」 景行天皇ー日本武尊は蝦夷退治に房総まできている>古事記 房総から東北>日本書紀
参考
- 卑弥呼が大和に来ている
- 東征(日本武尊)は紀伊半島>熊野>奈良柏原
上の二つはよく似ている 200年頃に邪馬台国は存在
地方支配の体制
- 国
- 郡(評=常陸国風土記)
- 里(郷)
50戸で里(郷)
- 1戸=戸主→20〜40人 6歳以上になると田をもらえる。兵役は一人/戸
50戸で村になるが、以下だと「余部(あまるべ)」と呼ばれた 軍役と納税のため
- 各村に軍団を持った。兵役務があった。防人、九州太宰府 3年 帰りは自腹
- 舎人=文官、武官 地方豪族が京に派遣した
- 自分の兵隊を持っていたが皆百姓だった
- 中央集権化に伴い刀狩りを行った。歯向かわないように
日本の人口
- 平安時代:540〜590万人
- 奈良時代:440〜450万人
- 死産が多い。平均寿命は30〜40歳
- 再婚も多い
郡の成立
- 孝徳天皇 645~654「改新の詔」
- 常陸国が有名
- 「つくば」>「つくば」、「河内」、「信太」 に分けた 人口19〜20万人
- 「茨城」>「行方」
- 「那珂」>当時は神栖の方まであった。分割して「香島」
- 「久慈」>そのまま
- 「多賀」>そのまま
大宝律令
- 「評」をいっせいに「郡」に変更
- 「こほり」は朝鮮語「こふる」が起源と言われている。共同体という意味
初期仏教
- 朝鮮(高句麗)>日本に布教。責任感あった
- 法興寺(飛鳥寺) 蘇我馬子主導して建立
- 碑文を下記のことした日本軍が歴史改竄
- 聖武天皇 妻:不比等の娘 仏教の布教に関与
- 仏教には偶像ある(神道にはない)。全国に拡大
- First Drafts:2021.12.2
- Update:2025.05.15 Now:02:10