「21雄略天皇」の版間の差分
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ページの作成:「==倭国伝資料== ===== 七国諸軍事 ===== * 倭、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓 * ==== 毛人 ==== * 崇神天皇時代に派遣した。上毛野と下毛野 * 関所の東を関東 * 土器の表面を縄文様>飾りではない ** 表面を締める目的に縄を使った、後に縄文として定着 * 弥生式土器 ** 弥生とは東京の弥生町で最初に発見された * 筑西市のおな方(女方) ** 弥生…」 |
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2025年5月5日 (月) 11:19時点における最新版
倭国伝資料
七国諸軍事
- 倭、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓
毛人
- 10崇神天皇時代に派遣した。上毛野と下毛野
- 関所の東を関東
- 土器の表面を縄文様>飾りではない
- 表面を締める目的に縄を使った、後に縄文として定着
- 弥生式土器
- 弥生とは東京の弥生町で最初に発見された
- 筑西市のおな方(女方)
- 弥生式土器のつるっとした形に縄文様
- 愛知県は弥生文化と縄文文化が融合して独特の文化だった。それと似通っていた土器が茨城に出た
- 十王台土器
- 弥生式に櫛形文様と縄文ー>群馬、埼玉にも出たがその後急に消えた
- 須恵器の台頭! 崇神天皇の毛人派遣以降。これは兵隊が使っていた
土器の話など近辺の話がつづく
- 南高野 土器がたくさん出た 古墳もある
- 久慈川流域 金砂郷は田畝が作れたので急速に発展
- 常陸太田市 かわい 条里制ある
- 条里制
- 梵天山古墳、星古墳 <茨城県最古
- 瑞龍の集落
- 久米に役所が移ってきた
- 横浜は方形周溝墓が数百あった、山の上
- ヤマトタケルノミコト 相模原の焼津近辺で草薙神剣での伝説
- たぶん横浜に集落があったことと関係がある。伝説もあながち根拠がある
雄略天皇
- 第五子でありながら兄を三人も殺して自分が天皇につく。乱暴者
- 日本書紀には排除した理由は書かれていない。当然だが
- 大臣(おおおみ 蘇我氏の時代まで)と大連(おおむらじ 物部氏)
- 姓(かばね)のひとつである臣(おみ)の有力者が就任。正史で最初の大臣と見なされているのは成務天皇の時代の武内宿禰である。その後は、武内宿禰の後裔(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏など)が大臣の地位を継いだ。
- 姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏と物部氏が大連となった。
- 645年以降でないと通しの西暦のようなものは存在しなかった。天皇歴のみ
百済の武寧王
次回
宍人部(ししひとべ) 料理人
- 雄略天皇は気に入らないと周りのものを手当たり次第に殺してしまったが、史部ふみひとべのみをかわいがったらしい
- また進められて宍人部を設けたらしい。これも料理の件で犠牲者が出たため
石上神宮
- 神功皇后にまつわる話
- 中臣と物部氏は仲が良かったらしい。大臣は敵対している蘇我氏である
- 葛城の一言主(一言でものごとを決めてしまうという意味)
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