「那須国造碑下野新聞記事」の版間の差分
ページの作成:「那須国造碑 下野新聞記事 しもつけ日本史発掘12 書道史上の日本三古碑の一つで、那珂川流域では唯一のるが国宝だ。 今から1300年以上前の700年ごろに建立され、現在は大田原市湯津上の笠石神社のご神体。石は八溝地区産花こう岩で一部は穴けているが、ほぼ当時のままで字ははっきりと読める。ノミで彫られ角度によっては、字が浮かび上が…」 |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
那須国造碑 下野新聞記事 しもつけ日本史発掘12 | == 那須国造碑 下野新聞記事 しもつけ日本史発掘12 == | ||
書道史上の日本三古碑の一つで、那珂川流域では唯一のるが国宝だ。 | 書道史上の日本三古碑の一つで、那珂川流域では唯一のるが国宝だ。 | ||
今から1300年以上前の700年ごろに建立され、現在は大田原市湯津上の笠石神社のご神体。石は八溝地区産花こう岩で一部は穴けているが、ほぼ当時のままで字ははっきりと読める。ノミで彫られ角度によっては、字が浮かび上がってくるような印象を与える。 | 今から1300年以上前の700年ごろに建立され、現在は大田原市湯津上の笠石神社のご神体。石は八溝地区産花こう岩で一部は穴けているが、ほぼ当時のままで字ははっきりと読める。ノミで彫られ角度によっては、字が浮かび上がってくるような印象を与える。 | ||
高さは上部の笠石を含めて1m148cm、幅49.5cm、厚さ41・5cm。1行19字で8行書かれ、計152字。中国・六朝風の気品ある書体である。 | |||
碑は飛鳥時代に要職を務めた那須直韋提(なすのあたい・いで)の遺徳をしのび、息子とみられる意斯麻呂(おしまろ)たちが建てたといわれる。 | |||
碑文を要約すると、地域の豪族であった韋提は国造から689年(持続3年=永昌元年)にに評督(こおりのかみ)(新しい地方組織の長官)となり、700年に亡くなった。 | |||
業績は子孫に引き継がれるとした上で「孔子の門弟にののしる者はいない。心を澄まして父を頭彰し、孝の心ある子は母を助けるものである」などと仏教と儒教の思想が色濃く刻まれていた。 | |||
情報の少ない7世紀末の地域社会ではこの碑が極めて重要な資料となる。 | |||
古碑に詳しい奈良県立万葉文化館研究量の吉原啓さんは「碑は国造が評督に転身する様子が分かる他、中央主導でなく地元の人たちが造ったまれな例。文字もこれだけ残されているのは珍しい」と強調する。 | |||
碑の表面は平らに磨き上げられ、技術力の高さをうかがわせる。「制作には朝鮮半島てからの渡来人で知識人がしている」と、大田原市なす風土記の丘湯津上資料館学芸員の宮澤友美みやさわともみさん。日本書紀によると新羅の人々が687年、689年、690年の3回。下毛野国に移住しているのに加え、年号の永昌は唐(中国)と新羅で使われていた。 | |||
江戸時代の1676年に僧侶が湯津上地区で碑を発見。 | |||
それを知った水戸藩主水戸光圀は庄屋らに命じて近くの侍塚古慣とともに調査、保護した。 | |||
「碑は塚(墓)にあったと聞いている。光圀公は碑堂を建て、この付近約1haを水豆藩領(飛び地)とし92年に碑堂が完成すると。すぐに参詣した」と笠石神社宮司の伊藤克夫さん。那須地域の豊かな歴史性と渡来文化が融合して碑が生まれたのだろう。 | |||
以上新聞より | |||
---- | |||
* First Drafts:2024.0831 | |||
* Update:{{LOCALYEAR}}.{{LOCALMONTH2}}.{{LOCALDAY2}} Now:{{LOCALTIME}} | |||
[[Category:日本書紀]] |
2024年8月31日 (土) 15:17時点における最新版
那須国造碑 下野新聞記事 しもつけ日本史発掘12
書道史上の日本三古碑の一つで、那珂川流域では唯一のるが国宝だ。 今から1300年以上前の700年ごろに建立され、現在は大田原市湯津上の笠石神社のご神体。石は八溝地区産花こう岩で一部は穴けているが、ほぼ当時のままで字ははっきりと読める。ノミで彫られ角度によっては、字が浮かび上がってくるような印象を与える。 高さは上部の笠石を含めて1m148cm、幅49.5cm、厚さ41・5cm。1行19字で8行書かれ、計152字。中国・六朝風の気品ある書体である。
碑は飛鳥時代に要職を務めた那須直韋提(なすのあたい・いで)の遺徳をしのび、息子とみられる意斯麻呂(おしまろ)たちが建てたといわれる。 碑文を要約すると、地域の豪族であった韋提は国造から689年(持続3年=永昌元年)にに評督(こおりのかみ)(新しい地方組織の長官)となり、700年に亡くなった。 業績は子孫に引き継がれるとした上で「孔子の門弟にののしる者はいない。心を澄まして父を頭彰し、孝の心ある子は母を助けるものである」などと仏教と儒教の思想が色濃く刻まれていた。 情報の少ない7世紀末の地域社会ではこの碑が極めて重要な資料となる。 古碑に詳しい奈良県立万葉文化館研究量の吉原啓さんは「碑は国造が評督に転身する様子が分かる他、中央主導でなく地元の人たちが造ったまれな例。文字もこれだけ残されているのは珍しい」と強調する。
碑の表面は平らに磨き上げられ、技術力の高さをうかがわせる。「制作には朝鮮半島てからの渡来人で知識人がしている」と、大田原市なす風土記の丘湯津上資料館学芸員の宮澤友美みやさわともみさん。日本書紀によると新羅の人々が687年、689年、690年の3回。下毛野国に移住しているのに加え、年号の永昌は唐(中国)と新羅で使われていた。 江戸時代の1676年に僧侶が湯津上地区で碑を発見。 それを知った水戸藩主水戸光圀は庄屋らに命じて近くの侍塚古慣とともに調査、保護した。
「碑は塚(墓)にあったと聞いている。光圀公は碑堂を建て、この付近約1haを水豆藩領(飛び地)とし92年に碑堂が完成すると。すぐに参詣した」と笠石神社宮司の伊藤克夫さん。那須地域の豊かな歴史性と渡来文化が融合して碑が生まれたのだろう。
以上新聞より
- First Drafts:2024.0831
- Update:2025.05.15 Now:02:43