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ページの作成:「== 平安時代覚書== == 平安時代== === 794 桓武天皇 平安京=== * 江戸時代も都は京都 * 遷都理由は平城京で仏教勢力の力が強くなりすぎたから * 徴兵制を廃止 郡司の子供を集めて軍隊を作った === 坂上田村麻呂 蝦夷征伐=== * 蝦夷は悪い人たちではなくて朝廷に従わない、東北に住んでいる人たち * 岩手県アテルイ 強い === 天皇親政 天皇自らが行う政…」 |
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=== 武士の起こり=== | === 武士の起こり=== | ||
* 墾田永年私財法743が発端 | * 墾田永年私財法743が発端 | ||
* 自分で耕した土地は自分のものになる。大化の改新時点の口分田や班田収受法は公地公民。 | ** 自分で耕した土地は自分のものになる。大化の改新時点の口分田や班田収受法は公地公民。 | ||
* 必死に開墾するが、武力から守ってくれる法律が無い。したがって貴族や寺社(納税義務がなかった。不輸不入の権利:荘園に以降)に寄進。これが後の荘園 | * 必死に開墾するが、武力から守ってくれる法律が無い。したがって貴族や寺社(納税義務がなかった。不輸不入の権利:荘園に以降)に寄進。これが後の荘園 | ||
* 荘園を管理する荘官として雇った。年貢は貴族や寺社に納めた | * 荘園を管理する荘官として雇った。年貢は貴族や寺社に納めた | ||
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** 平氏 桓武天皇の系統 | ** 平氏 桓武天皇の系統 | ||
** 源氏 清和天皇の系統 | ** 源氏 清和天皇の系統 | ||
=== 天皇にはむかうこと=== | === 天皇にはむかうこと=== | ||
* 面と向かって天皇にはむかった人物はいない。これは日本だけらしい | * 面と向かって天皇にはむかった人物はいない。これは日本だけらしい | ||
2026年3月8日 (日) 10:16時点における版
平安時代覚書
平安時代
794 桓武天皇 平安京
- 江戸時代も都は京都
- 遷都理由は平城京で仏教勢力の力が強くなりすぎたから
- 徴兵制を廃止 郡司の子供を集めて軍隊を作った
坂上田村麻呂 蝦夷征伐
- 蝦夷は悪い人たちではなくて朝廷に従わない、東北に住んでいる人たち
- 岩手県アテルイ 強い
天皇親政 天皇自らが行う政治
天台宗(最澄)、真言宗(空海) 二人ともに遣唐使留学
- 密教 奈良とは違う新しい仏教
- 山に寺を作ってこもり修行することで悟りを見ざすのが特徴
藤原 摂関政治
- 最盛期 11C @NHK大河ドラマ2024「光る君へ」
- 3人の娘を皇后
- 一条天皇正妻が定子(ていし)@高畑充希演 家庭教師がかの清少納言(@サマーウイカ)
- 彰子(しょうし) 一条天皇 @見上愛演
- 妍子(けんし) 三条天皇
- 威子(いし) 後一条
- 嬉子(きし) 後朱雀天皇の妃(東宮妃)
894 遣唐使廃止 唐が内乱のため
- 菅原道真が提案。右大臣に抜擢され藤原氏の嫉妬にあう
- 皇居に落雷があって菅原道真のたたりとされた。雷の神様>天神様
- 北野天満宮で恨みを鎮めた
武士の起こり
- 墾田永年私財法743が発端
- 自分で耕した土地は自分のものになる。大化の改新時点の口分田や班田収受法は公地公民。
- 必死に開墾するが、武力から守ってくれる法律が無い。したがって貴族や寺社(納税義務がなかった。不輸不入の権利:荘園に以降)に寄進。これが後の荘園
- 荘園を管理する荘官として雇った。年貢は貴族や寺社に納めた
- 国にお金がない、国民を守れない
- 野盗や海賊が横行。>ガードマン>武士
- 武士団形成
- 平氏 桓武天皇の系統
- 源氏 清和天皇の系統
天皇にはむかうこと
- 面と向かって天皇にはむかった人物はいない。これは日本だけらしい
- @呪術の力を持っていると思われたから。武力がないのに日本を治められた理由はここにあると思う
- 平将門 例外 親皇と名乗って関東に独立政府 935
- 瀬戸内海 藤原純友の乱 939
- 承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱 上記の2件は同時に起こった。合わせてこう読んでいる
- 承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は私戦(豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。実際にこれが「反乱行為」(はんらんこうい)と見なされるのは、天慶2年に将門・純友が相次いで起こした国司襲撃以後のことである。従って、この乱を「天慶の乱」と呼ぶことには問題はないものの、単に「承平の乱」と呼んだ場合には事実関係との齟齬を生む可能性があることに留意する必要がある。 wikipedia
末法思想
- お釈迦様没後1500~2000経過で夜の末が来るという思想ー>浄土教 阿弥陀仏
- 平等院鳳凰堂 藤原頼道 阿弥陀仏
寝殿造り
- 寝室を廊下で繋いだ作り
- 小学校作りが似ている(渡り廊下)
- 国風文化 遣唐使廃止後 かな文字など
武士の時代へ
保元の乱1156
- 原因: 崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承争いに、摂関家(藤原氏)の内紛が連鎖。
- 構図:
【後白河天皇方】源義朝、兄藤原忠通、平清盛ら(勝利) 【崇徳上皇方】源為義、弟藤原頼長、平忠正ら(敗北)
- 後白河側の圧勝
- 崇徳天皇 讃岐に流刑 呪い大魔王と恐れられる。自分の血で書いた写経を突き返され他の原因で死後「日本国の大魔縁(怨霊)となると誓った。本来ロマンティスト
平治の乱1159
- 原因: 保元の乱の恩賞差や、朝廷の近臣(信西)と源義朝の対立。
- 構図:
【平清盛】二条天皇・後白河上皇と結ぶ(勝利) 【源義朝】藤原信頼と結ぶ(敗北)
- 結果: 平清盛が信頼・義朝を打ち破り、源氏は失脚。平氏が長年にわたり、他の武士を圧倒する全盛期(平氏政権)を築いた
源義朝 敗れる 息子 頼朝、義経は助かった(何故か清盛継母の命乞いのおかげ)
- この2つの乱により、武士が「警護の存在」から「政治の主体」へと変わり、源平合戦(治承・寿永の乱)へ繋がるきっかけとなった
平清盛と源平合戦
- 日宋貿易
- 源平合戦
鹿ヶ谷(ししがたに)事件1177
- 後白河法皇 平家討伐失敗
- 京都東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)にあった信西の子静賢法印の山荘で
- 俊寛は鹿ヶ谷の陰謀に加わって薩摩国に流刑。加担した理由が女性絡み
息子以仁王 平家追討を全国武士に伝える
- @京都高倉神社に祀られている
源頼朝
- 伊豆にいたが敗戦
- 梶原景時(義経と仲が悪い)に助けられる。北条氏の政子と結婚。北条氏は平氏だったので賭けだった
- 千葉に逃げる。ここで関東の源氏を集めた
- 木曽義仲 頼朝とは仲が悪いが目的は同じ
- 富士川の戦い 鞍馬寺から脱出して奥州平泉に逃れる
- 鳥が羽ばたいて夜襲と勘違いした平家の軍勢が逃げたことで有名
平清盛 マラリアで死亡
- 義仲挙兵(以仁王の命令)倶利伽羅峠の戦い 牛の角に松明
- 平家軍撃破 都に雪崩こむ
- 平家は8歳安徳天皇を連れ去る
- 義仲の京内での悪行。法皇の義仲追討の命令をうけ頼朝
- 宇治川の戦い
- 一の谷 頼朝リーダー
- 義経の崖からの急襲
屋島(香川)
- 扇の的エピソード 那須与一
壇ノ浦(山口、関門海峡)義経 一艘飛び
- 安徳天皇入水 母親の建礼門院平徳子も入水したが助かる
- このときに草薙の剣が紛失したと言われる
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