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俵屋宗達と養源院
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==俵屋宗達杉戸絵、血天井 、俵屋宗達と養源院== 智積院や三十三間堂から、ほど近い 他の神社仏閣から比べると建物自体こじんまりしていて、境内に入ってから建物まで距離を感じる 訪れる人もそれほど多くなくて静か 「葵の紋」に出迎えられるのは、意外な感じがした ===俵屋宗達の出世作「杉戸絵」=== 白象や唐獅子、麒麟像の杉戸絵はここでしか見られない また宗達の絵で襖に描かれた絵はここにしか無い「松図十二面」。何故なら当時寺社の美術品制作は狩野派独断場。他の絵師が入り込む余地は少なかった 宗達は単なる扇職人で全くの無名だったはずですが、本阿弥光悦に可愛がられていたこともあり大抜擢! おかげで朝廷に認められ、高い位を与えられて大画家として初めて認められたそうな。この杉戸絵は出世作なのです 初仕事を大成功させた幸運な人です 白象の目や、シワなど緩やかな曲線で現代風デザインのよう。獅子の豊かな巻毛も、見事な渦を描いている。剽軽な目元も愛らしく見える。風神雷神につながる特徴です 宗達が尾形光琳などの琳派創始者と言われている理由がわかります ===伏見城から移設された遺構「血天井」=== もう一つの目玉は、伏見城で石田三成の軍勢に敗れた徳川家臣達の血塗られた遺構「血天井」 薄暗い廊下に連れていかれると説明のおばさんが、天井を指し棒で示しながら「ここは髷、ここは腕、この部分は腰あたりかな?」など薄黒くなっている天井の部分を指して説明してくれる。本当にそうなのかどうかは分からないが、伏見城の惨状がイメージできて怖い。この伏見城の戦いの後に石田三成は関ヶ原の合戦場に向かったのだ 家臣たちは1600年に自刃しており関ヶ原戦後処理が終わるまで2ヶ月間放置されていたので血痕が床板に染み付き削っても落とせなくなったのだそうだ 落雷で一度焼けた後に1621年に伏見城から移築して床板を天井に使った 杉戸絵に書かれた白象や唐獅子は仏教の菩薩の乗り物だそうで、無念の徳川家臣の霊を弔い極楽に導くという意味もある。このような重要な絵でありながら自由で奇想天外(当時の人にとっても)なものを初仕事でやってしまう宗達って画家は・・・天才と言われる所以なんでしょうね。あやかりたいものです ===建立の歴史=== 秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の供養の為1594年に創建した寺。一度は落雷で焼けたのですが淀君の妹「お江さん」の願いで1621年に伏見城の遺構を移築して再興されたそうです それ以後は徳川家の菩提所となり、豊臣家が創建して徳川家に引き継がれるという不思議なお寺となった。江戸時代までは高貴な人たちしか参拝出来なかったとという特別なお寺だったそうです だから「葵の御紋」 ---- * First Drafts:2018-05-01 記述 * Update:{{LOCALYEAR}}.{{LOCALMONTH2}}.{{LOCALDAY2}} Now:{{LOCALTIME}} [[Category:日本美術史]]
俵屋宗達と養源院
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